選挙に勝てば、罪は消えるのか

選挙に勝てば、罪は消えるのか

木原稔官房長官が、自民党派閥の政治資金問題で不記載があった議員の閣僚登用について、気になる発言をしました。
「衆議院議員の場合はもうすでに2回選挙を経ていますから、国民の信任を得ている」
さらに木原官房長官は、選挙は「何よりも国民の審判という意味でいうと重要」であり、それを踏まえて今回の人事が行われるのではないか、との考えを示しました。
一見すると、もっともらしく聞こえるかもしれません。
しかし私は、この論理には大きな問題があると思います。


選挙で当選した=国民の信任を得た、なのか
そもそも、選挙で当選したということは、何について国民の信任を得たということなのでしょうか。
仮に、ある国会議員が、他のほとんどの国会議員が賛同しないような極端な政策を掲げていたとします。
その議員が自分の選挙区で当選した。
それだけで、その政策が「国民の信任を得た」と言えるでしょうか。
そんなことにはなりません。
そもそも小選挙区で一人の候補者を選ぶのは、その選挙区の有権者です。他の選挙区の国民は、その候補者に投票する機会すらありません。
全国の国民が、その候補者の政治資金問題について可否を問われたわけでもありません。
それにもかかわらず、一つの選挙区で当選したという事実をもって「国民の信任を得た」とするのであれば、選挙区の有権者による議員の選出を、国民全体による個別問題への信任へと置き換えていることになります。
仮にその選挙区の有権者の多くが、政治資金問題を十分承知した上でその候補者を積極的に支持していたとしても、それをもって「国民がその問題について信任した」とすることには相当の無理があります。
まして、選挙で有権者が一票を投じる理由は一つではありません。
候補者本人を支持した人もいるかも知れませんが、政党で選んだ人もいれば、政策で選んだ人もいるでしょう。他の候補者との比較で消極的に選んだ人もいるかもしれません。その候補者には投票しなかった有権者も当然いるでしょう。
それらをすべて一つにまとめて、「選挙で当選したのだから国民の信任を得た」とし、さらにそこから「過去の政治資金問題についても国民の信任を得た」とする。
これは明らかな論理のすり替えです
選挙で当選したとしても、過去の個別の問題について国民の信任を得たことには決してなり得ません。


国民は、何を材料に「審判」したのでしょうか
さらに私は、「国民の審判を受けた」という言葉そのものにも強い違和感があります。
国民が何かについて審判を下すためには、その前提として、何が起きたのかが国民に十分明らかにされていなければなりません。
関係する政治家が国会での説明や必要な参考人招致などに応じる。必要であれば、利害関係のない第三者による徹底した調査を受ける。
そうして事実を可能な限り明らかにし、その情報を国民に示して初めて、国民は自ら考え、判断することができます。
自民党は党内調査を行い、関係議員を処分しました。検察による捜査も行われはしました。
しかし、刑事責任の立証ができたかできなかったのかという問題と、政治的・道義的責任は同じではありません。
政治の側は、何が起きたのかを明らかにする責任、そしてそれを説明する責任を十分に果たしてはいません。
そのまま選挙を迎え、選挙が終わった途端に「国民の審判を受けた」「国民の信任を得た」と国民を持ち出す。
私は、この論理と手法に到底賛同できません。
国民が判断するための材料を十分に示さないまま、その国民を自らの問題を清算する道具として利用しているとしか言いようがありません。
国民を随分と馬鹿にした話に思えます。


問題を起こしたら、二度と登用してはいけないのか
私は、そう言っているわけではありません。
政治家であっても間違いを犯すことはあります。問題を起こした人間を永久に政治の世界から排除すべきだとも思いません。
まして、本当に有能で、政権運営にとってなくてはならない人材であるというのであれば、なおさら正面から事実と向き合えばよいのではないでしょうか。
何があったのかを徹底して国民の前に明らかにする。
自らの間違いがあれば、それを認める。
そして、その責任を国民に対してしっかりと取る。
そのプロセスを経た上で、改めて国民の審判を受け、再起を図ればよいのです。
それならば、その人を再び登用することについて国民に説明することもできるでしょう。
問題なのは、そうしたプロセスを飛ばし、選挙で当選したという結果だけを使って「国民の信任を得た」とすることです。


これは完全に「罪のロンダリング」になってしまっています
今回、木原官房長官が突然この考え方を言い出したわけではありません。
高市首相は政権発足後、政治資金収支報告書に不記載があった議員を政務三役に登用しました。その際にも、選挙を経て再び議席を得たことが、人事判断の一つの根拠とされました。
問題が起き、党内で調査・処分し、選挙を経る。そして当選すれば「国民の審判を受けた」ことにする。
それを再び要職に登用する根拠とする。
この考え方は、すでに高市政権の人事で使われています。
私は、そもそものこのやり方からして認めることはできません。
そして今回、木原官房長官はさらに「2回選挙を経ていますから、国民の信任を得ている」と明言しました。
問題を起こした後、選挙で当選したことをもって「国民の審判を受けた」「国民の信任を得た」とし、それ以前の問題まで政治的に清算されたものとして扱うこと、それは正しく**「罪のロンダリング」**とでも呼ぶべきことでしょう。
ここでいう「罪」とは、政治家として問われるべき行為、政治的責任、道義的責任などもすべて含めた広い意味での「罪」です。
選挙は免罪符にはなり得ません。また免罪符にする手法をこれ以上許す社会ではあってはならないとも思います。
一度、二度と選挙を通過させることで、本来成り立たない論理を正当な政治原則であるかのように定着させてしまえば、今回だけではなく、将来も同じ手法を使うことができます。
しかも、その「罪」を洗い流すために使われるのは、私たち国民です。
私は、このような論理をここで曖昧に認めてしまうことの方が、将来に大きな禍根を残すと思います。
選挙で当選したというだけで、過去の問題についてまで「国民の信任を得た」と言うことを当たり前にして良いのでしょうか。
反社会的組織のマネーロンダリングには厳しい目を向ける社会が、政治家の「罪のロンダリング」には目を瞑るという社会であっていいのでしょうか。

コメントを残す

上部へスクロール

国家百年構想フォーラムをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む